NANAシステム開発 株式会社
STAFF BLOG

【1572年】三方ヶ原の合戦

三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、
武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。

最強の騎馬軍団を率いる武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人。
徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走しました。

この時、家臣の夏目吉信は、家康の兜と馬を以って
「我こそは徳川家康なり」と叫び武田勢に突入。
家康を逃がすために身代わりとなって戦死しました。

家康は、命からがら浜松城に逃げ帰ったのですが、
この時の恐怖のあまり脱糞したとも伝えられています。
 
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、
帰ってくる味方を迎え入れます。
逆に武田軍は、これを計略ではないかと警戒し、
城に攻め込みませんでした。
実戦経験の多い武田軍武将の心理をついたのか、
それとも単なる偶然か?
 
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、
三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。
崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。
現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

また、家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。

謎の多い三方ヶ原の合戦、色々な逸話もありますが
私が特に気になる点を4つあげてみました。
調査結果は、疑問点を色々な著書や資料から調査し、
私なりに想像して纏めてみました。


疑問① : なぜ武田軍は、織田(/徳川)軍に戦を仕掛けたのか?
そもそも武田家と織田家は同盟国であり、
織田家の長男 : 織田信忠と武田の姫(松姫)は婚約をしていました。
武田信玄といえば、日本を代表する戦略家の印象。
織田を裏切るとしても、効果的な戦略があったのでは?
と思ってしまいます。
 
【調査/考察】
同盟破棄も戦略の1つとしていた信玄らしい考えと思います。
一説によると比叡山の焼き討ちの件も信玄の怒りを買った1つということもあり、延暦寺を甲斐に移す計画まであったそうです。
また、西は本願寺、北は朝倉/浅井連合とその他大名達と信長を包囲する動きがあり、織田家を東から攻撃すると美濃(現在の岐阜県)を攻撃することになりますが、
その際に浜松の徳川家に背後を突かれることを懸念し浜松から攻めることを決めたようです。

疑問② : 家康は、なぜ城を出て戦ったのか?

書籍や記録から見ると、浜松城の目の前を3万の大群が
通過し、その後、100人程度の武田兵(小山田信茂)が石を投げながら
罵声を浴びせたところから、逆上し出陣したと言われていますが、後に日本を統一するほどの人物(徳川家康)が、
たったそれだけの事で籠城作戦を変更して、
当時最強の武田3万の軍隊に勝ち目のない戦を挑むのだろうか?
 
【調査/考察】
1万の徳川/織田連合軍は、3万の武田軍に対し、浜松城に籠城し、
時間を稼ぎ、織田の後詰(援軍2万)を待って武田軍を挟み撃ちにする作戦だったという説があります。
ところが、籠城して時間をかせぐどころか武田軍は浜松城を攻めず、
そのまま目の前を通過し、北上してしまいました。
無傷の3万の武田軍が、織田援軍2万に対し侵攻すると織田軍が壊滅してしまいます。
しかし、単に城外へ誘い出す罠であれば、徳川家が滅亡してしまいます。
この時、家康は究極の選択をしなければなりませんでした。
浜松城には織田家の援軍がいたこともあり、
家康は出陣せざるをえない状況となったのだと思います。

疑問③ : 戦陣として、人数の少ない徳川/織田連合軍が「鶴翼の陣」、人数の多い武田が「魚鱗の陣」??逆なのでは?

【調査/考察】
徳川/織田連合軍の「鶴翼の陣」は実は包囲することが目的ではなく、
武田本隊と遭遇した場合に逃げやすいことも考慮した戦術ではなかったかと思います。
鶴翼の陣は、左右に広がって陣を張り、徳川本隊は後ろに位置し戦線離脱しやすい。
それに対し、武田軍の「魚鱗の陣」徳川軍の殲滅を目的とせず、
徳川家の本隊のみを叩き、武田兵の消耗を最小限にしたかったのでは?
と思いました。
三方ヶ原の合戦後、浜松城を落とさず三河に北上したことからしても
武田軍にとっては、あくまで浜松は通過点だったようです。
また、当時戦国最強の騎馬軍団と言われた武田軍3万に
たった1万の軍勢で立ち向かった徳川家康、
負け戦だったけども全国にその名を轟かせたとのことです。

疑問④ : 信玄は、なぜ上洛をあきらめ甲斐に引き上げたのか?

浜松城を落とさず、京への上洛もせず
引き上げる結果となった原因は何か?
【調査/考察】
信玄の病が重くなったという説が通説ですが、
野田城からの銃撃で深手を負ったという説もあります。
現在では、新城市の設楽原資料館には信玄を撃ったとされる
「信玄砲」が展示されています。
また、1572年12月28日事件が起こりました。
近江に出陣しているはずの朝倉軍が信長が岐阜に帰還した直後に
帰還していたのでした。
そのまま一斉に攻めれば、倒せたものを、これは完全に敵前逃亡に近いのです。
朝倉家によれば、信玄が信長を倒したところで、信長が信玄に変わっただけで
朝倉家にメリットがないとの判断だった様です。
この結果、信長は朝倉軍撤退で浮いた兵力を三河に回すことができるようになりました。
信玄の病状も悪化する中、武田軍は作戦の継続を断念せざるを得ない状況となりました。
1573年3月9日に帰国の途についたが、時すでに遅く戦国屈指の名将と謳われた武田信玄は、
同年4月12日信州駒場で帰らぬ人となりました。

三方ヶ原の合戦からついた地名
●小豆餅、老婆事件
家康が浜松城へ敗走中に腹が減り、茶屋の老婆から餅を買うも追手が来たため、食い逃げをしたのですが、老婆が全力で追ってきて代金を徴収したのです。三河の商人はさすがです。
この事件からついた地名の由来で、
茶屋があったところには、「小豆餅(浜松市中区の町名)」、

代金を払ったところには、「銭取(浜松市中区和合町の地名)」の地名が付いたと言われています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

●犀ヶ崖の戦い
崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落しました。
その伝承によって「布橋(浜松市中区の町名)」と言う地名がついたと言われています。
 

九死に一生を得た家康が、その後天下を取るとは、この時は誰も想像できなかったでしょう。
日本の歴史って本当に面白いですね。